お題:廃教会


 仄羽たちは宗教にはあまり馴染みがない。神という存在、宗教という概念、信心深さの程度は人それぞれとはいえ、一定の親しさを持っている町が多いらしい、ということは、仄羽が冒険者になってから知ったことだった。拠点にしているリューン近郊では聖北教会が幅を利かせているし、聖北教会から派生したとされる聖海教会や聖夏教会、あるいは聖北とは敵対しているクドラ教など、どれがよいとか悪いとか、あるいは正しいとか間違っているかはわからないにせよ、宗教というものが身近にはなってきた。もと住んでいた町から出てきて、暁や瑞矢などは自身をまったくの不心得者であると断言していた。対して仄羽はまだ、そこまでの判断はできない。いるのだ、と言われればいるのかもしれない、と思うし、いない、と言われれば、そうかもしれない、とも思う。ただ救いを求めるところには至れていない、あるいは至れる気がしていないのは事実だ。
 依頼を受けて足を運んだこの町、いや、村は、聖北の信仰が根強かった。起きたらまず祈りを捧げ、食事の前には神に感謝し、一日が無事に終ったことをまた感謝し、明日も無事であるようにと祈る。ただ、あなたたちはしないのか、と初日こそ聞いてきたけれど、しないと答えたあとはそれきり、一度も問われることはなかった。仄羽にはそれがありがたかった。なかには信仰を押しつけてくるような町もある。祈らないだなんて罰が当たる、神に感謝しないだなんて呪われる、とでもいうような。同じパーティで冒険者をやっているほかの皆は受け流し、あるいは心のなかで一蹴しているのだろうけれど、仄羽は違う。仄羽はいつも、責められているような気になる。大袈裟にいえば、依頼人とはこれまでの人生で関係のなかった相手で、かつ依頼を終えれば再び無関係に戻る相手だ。それなのに、相手の考えに沿えないことがまるで悪いことをしているような気持ちになってしまう。相手と自分の境目があやふやになる。
 適切な距離をとれ、と威に言われた。
 入れこみすぎるな、相手を慮りすぎるな、自分をないがしろにするな。
 冒険者として働き始めて、依頼人に肩入れするのはいつも仄羽だ。威も、暁も、七嶺も、瑞矢も、シンクも、誰も足元が揺らがない。仄羽もそのときの最善を尽くそうとしているだけで無理をしているつもりはないが、威いわくは「お人好しすぎる」のだそうだ。
 その点、今回の依頼は気持ちが楽だった。よくある害獣退治。害獣と一言で片付けてしまうのは好ましくないにせよ、とにかくいつもの調子で、いつものとおり、依頼は終了した。報酬とともに馳走が振舞われ、仄羽は祈りを捧げる村人たちを見つめた。習慣だからと仕方なくやっているというわけではなく、どの人も当り前の表情で、穏やかに手を合わせていた。
 お疲れでしょうから、せめて今夜だけでも泊まっていってください、という村長の言葉に甘えたのが数時間前のこと。どこででも寝られるのが冒険者の特技だとしても、やはりベッドはあるほうがうれしい。威と仄羽、シンクと瑞矢、暁と七嶺、といわゆるいつもの組み合わせで別れてねむりについた。きっとぐっすり寝られるだろう、と思っていたのだが。
 暗闇のなか、仄羽の碧眼が浮きあがる。夜目が利かないなか毛布に手をすべらせた。何もない。あるべき姿が見当たらない。
「威さま?」
 ひっそりと呟くように呼びかけてみるが、返事はなかった。枕元に置いたランタンをなんとか引き寄せ、火をつける。やはり威の姿はなかった。
 どこに行ってしまったのだろうか。たとえば村長に誘われて話をしているとか、と部屋から顔を出してみても、あたりはしんと静まっている。村長が気を利かせて廊下に置いてくれたランタン以外は明かりもない。
 ひとまず部屋で待つことにして、ベッドに腰かける。最悪の事態が頭に浮かばないではない。仄羽が知っているかぎりでも、吸血鬼は宗教上、忌むべき存在として扱われがちだ。威が吸血鬼であることはもちろんわざわざ村人に伝えたりはしていないけれど、どこからかばれた可能性はある。もっとも、だとしたら同じく吸血鬼の瑞矢も被害に遭っていて然るべきだし、そうするとシンクが知らせに来ているだろう。シンクはぬいぐるみなので、睡眠はとるけれど、必要なときには起きている、らしい。だから仮に瑞矢が襲われたとして、見逃すなどありえない。彼の理屈はたまによくわからないが、信頼はできる。
 ランタンのなかの火が小さく音を立てた。探しに行ってみよう、と仄羽は立ちあがる。なんだか目も冴えてしまった。今回討伐依頼を受けたモンスター以外は特に何が出没するでもない、穏やかな村だと聞いてはいたものの、念のためいつもの装束に着替える。威を探しに行って下手を打つようなことがあれば本末転倒だ。
 ほかの人里からは距離のある、独立した村である。これまで行ったどの村や町よりも星と月が輝いて見えた。明かりさえ必要がない。空に目を奪われつつ、仄羽は歩みを進めた。
 どこにいるのだろう、という疑問とは裏腹に、足取りに迷いはなかった。ひたすらに歩く。村人たちの住居を抜け、畑を横切り、討伐を行った洞窟に向かっていく。洞窟が近づいてくると、できあがった道を逸れて、草をかき分けた。なぜかはわからないし説明もできないけれど、威はこの道なき道の先にいる、そんな気がした。いや、いる、と断言できた。
 根拠のない自信に不安を覚えはじめたころ、風が仄羽の頬をなぜた。前髪が目に入り、反射的に指でこすると、教会が目の前にあった。古びた教会で、いまは使われていないことが目に見えてわかる。色は剥げ、屋根の一部は崩壊し、痛々しく朽ちている。もっとも高いところに掲げられた十字架も、存在を隠すようにどこかひっそりとしていた。
 宗教に馴染みがないのは、祈りばかりではない。宗教に関する絵画、奇跡、建物のすべてが冒険者となってから知ったものだ。仄羽は教会を眺める。あんなにも信仰心の深い村の近くに、なぜ廃墟となった教会があるのか。打ち捨てられるばかりで、なぜ新しく建てなおすことも、あるいは撤去されることもされていないのか。
 半分崩れている扉にそっと手を置く。ぎい、と蝶番が錆びた音を鳴らしたが、外れたりはしなかった。
「来たね」
 耳慣れた声がして、仄羽は視線をあげる。壁を覆わんばかりのステンドグラス、中央でこちらに体を開いている大きな女性像。そして、威が立っていた。ステンドグラスの鮮やかな色を、その銀髪に、白い服に、一身に浴びていた。仄羽は一歩足を進め、威を見つめた。くらくらする。
「威さま」
 教会の中心で輝く威から目が離せない。仄羽はそれ以上近づくこともできないまま、かろうじて声を発した。
「威さま、どこか遠くにいらっしゃるみたいです」
 不安を抱いたつもりはなかったが、口にしてみれば明らかなさびしさがあった。まるでこの世ではないところにいるみたいだ。どこにでもついていき、どこまでもともにいるつもりではあるが、世界が隔たってしまうと、もはやどうすればよいのかわからない。
 しかし威は仄羽の不安を吹き飛ばすがごとく、声をあげて笑った。
「遠くに?」
 愉快そうに片目を細めたかと思うと、威は仄羽の視界から消え、次の瞬間には鼻をすり合わせられる位置に現れた。人間だったときと吸血鬼のいまと、威の言動はほとんど変わらないが、ときたま思い出したように霧になる。その大半は仄羽を驚かすためだ。今回も仄羽はびくりと体を震わせ、反射的に引いた腰を引き寄せられる。
「ほら、これなら近い」
「そういうことじゃ……」
 反論もろくにさせてはもらえない。ついに互いの距離がなくなり、仄羽は威の背中に腕を回す。当然、あたたかさはなかった。けれど、威に触れているということが、仄羽をほっとさせる。
 こんな場所で口づけていると、まるで結婚式みたいだ、と仄羽は思う。教会でしあわせな顔をしている夫婦をリューンでも何度か見かけた。結婚式、というだけなら教会ではなく、「吸血鬼や人狼との結婚式、承ります」と謳った場所で挙げたことがある。そこでは神父ではなく祭司だった。形式的なものを忌避しがちな威にしてはめずらしく受け入れてくれて、それだけで仄羽はうれしかった思い出がある。
 威は仄羽を抱きしめたまま、女性像を手で示した。つられるように仄羽は視線を向ける。
「ここは信仰の成れの果てだ」
 女性像はよく見れば場にそぐわず、きれいに磨かれていた。古ぼけたところはあるものの埃をかぶっていない。汚れらしい汚れも見当たらなかった。
 ステンドグラスもそうだ。手入れされていなければあんなにも輝くだろうか。
「村人たちは何に祈っているんだろうね?」
 朗笑する威を見て、仄羽は周りを観察する。左右に置かれた椅子は木製で、きれいとはいえない。しかしやはり女性像と同じく埃をかぶっておらず、座るのに躊躇の必要がなさそうだ。そもそも教会内には埃っぽさがない。外から見たとき感じた、痛々しい状態とは様相が異なる。
「わかりません。わたしには……」
「うん」
 顎をとられて、仄羽は素直に唇を重ねた。ここでは誰も見ていない。女性像からの視線はきっと信仰者にとっては無視できないものなのだろうけれど、仄羽にとっては像でしかなかった。
「わからなくていい。何もする必要はない」
 ふとよぎった考えを口にするまでもなく言われる。仄羽の思考はいつでも威にお見通しなのだ。もっとも今回ばかりは確かに、この教会を「大切な場所なのだろう」程度にしか受けとめられない仄羽には、首をつっこむ余地はなかった。首をつっこんだところで、おそらくは傷つけることしかできない。
「仄羽は、僕を信じていればいい」
 威の腕のなかで、はい、と仄羽は返事をした。ここが教会ではなくとも、自室であろうと別の場所であろうと、同じように返しただろう。
 翌日、村人たちは過ぎるほどの感謝とともに見送ってくれた。皆さまの前途に、神のご加護を、と祈ってくれた「神」がはたして何をさしていたのか、仄羽は知らないし、何であっても問題のないことだった。