赤い糸のアリア/春秋村道の駅 様


本編準拠の本家です

「もし、素敵な男性の方がいらっしゃいましたら、お一人で来ていただけると嬉しいです。愛を語らってみたいですから」
 あなたがそんなことを言うから。
 扉の前で暁は嘆息する。普段は六人、いや、五人と一匹で行動している暁がひとりでこの場にいるのは、彼女の言葉が原因だった。冒険者と名乗る者たちは大概が常宿を決め、パーティを組み、パーティごとで依頼をこなしていく。とはいえ状況や依頼内容によっては人数を絞って受けることがあり、その認識に漏れず、暁も一人で依頼を受けることはある。主人である威に不自由や苦労をさせるわけにはいかないので、ある程度の資金は常に抱えておく必要があるからだ。同じパーティ内でも、七嶺は器用なたちではないし、瑞矢は暁以上に威に身近な従者なので彼の傍を離れるのを避けがちであるし、仄羽に至っては威の知らないところで重体にでもなれば、と、考えるだけでもぞっとする。シンクは自由なので割愛する。とにかく、威ありきのパーティのなか、ある程度余裕を持って動けるのは暁だけなのだ。常に。
 しかし今回にかぎっては、そんな事情は一切関係がない。暁が広く立派なこの屋敷を訪ねてきたのは二回目だ。誰が住んでいるのか、何があるのか、暁は把握している。把握しているからこそ、ひとりで扉の前に立っている。
 自分はアラクネである、と彼女は言った。夜の女王の娘、パミーナ、と。
 パミーナは見目麗しき女性であったが、下半身は蜘蛛であった。アラクネとは女しか生まれない種族であり、他種族の男に恋をして繁栄していく。下半身に違わず生態は蜘蛛に似て、糸を紡いだり、呪を用いて生きる魔なる存在だ。恋が実らないときには自分の魔力を呪いに変え、完全な魔物となり恋した相手を呪う。嫉妬深く、復讐に生きる。
「……そういう生き物なのですよ、わたくし達は」
 と、彼女は説明を結んだ。諦めたような、自嘲するような、複雑に感情を混ざり合わせた笑みをたたえて。
 彼女の言う糸、というのは、もしかすると服を縫ったりする糸、あるいは医療用の糸も含むのかもしれないが、とにかく糸と聞いてイメージするとおりのものだけではなかった。彼女の言葉を借りれば、「愛を結ぶ呪術に使う糸」を紡いでいるらしい。暁たち人間には見えない赤い糸、というのも見えているようだ。人であろうと獣であろうと運命の相手というのがいて、命から伸びた赤い糸がつながっている。もっとも、運命は変わる可能性があるとのことだったけれど。
 一口に「赤い糸」と言っても、いくつかの種類があった。暁たちのパーティ内でも何本か見えると言う。助言を申し出てくれたものの、どこまでも自由なシンクが、「あのね、みんなややこしーい関係性だから、断言されるとぼくが面倒くさいの」と言ったので、パミーナは苦笑しながら黙った。暁たちも黙っていた。シンクの言うとおりである。
 そのややこしい関係性をさらにややこしく拗れさせることは大歓迎、何なら酒の肴にして愉悦に浸りそうな威も、同じく黙っていた。暁の主人は「運命」という言葉を好まない。パミーナのように自身とは関係のないところで「運命」を信じている者に対して、わざわざ喧嘩を売るような真似をしないだけで、心底では反吐が出るような気持ちだったに違いなかった。
 しかしそれにしたって無言であると暁が威を見ながら首を傾げていた帰り道、不安は的中した。
「アラクネは生涯ただひとりに恋をして、実らなければ相手を呪う。そういう話だったな」
 威に言われ、暁は頷く。
 運命は変わる可能性があると言ったその口で、裏切られれば呪い殺すと彼女は言った。
「そうっすね。失恋の怨みにしては理不尽な気もしますけど」
「自分を夢中にさせた結果をすべて相手の責任にするわけだ。よくある話じゃないか」
 呪う、という部分を置いておけば、確かに、よくある話だ。パミーナの母も想い人に裏切られたとのことだったが、想いを移らせることがどこまで罪深きものなのか、はかることなどできない。もちろん、永遠を誓っただとか、相手に秘したまま移した心を実らせてしまった場合、話は変わってくる。パミーナも終始「旦那様を探している」という言い方をしていた。アラクネたちのなかでは、恋が実った段階で、永遠を誓ったことになるのかもしれない。とはいえ、推測の域は出ないし、暁の興味をそこまで惹くものでもない。
「一方的な感情は、恋愛にかぎらず暴力と変わりないと思うけどね」
 言い放った威の声を、少し遠くを歩く仄羽の耳は捉えていたと思うが、彼女は振り向かなかった。暁は素直に感心する。暴力。実に、説得力がある。威さまもね、と、口が裂けても言えない――わけではないけれど、仄羽のために暁は何も答えなかった。
 暁はひとの思考を読みとったり、感情を汲むことに長けている。そのため、次の威の言葉も、まったく予想していなかったとはいえない。
「暁」
 しかしそれでも、暁は驚いた。柄にもなく、顔を素直にゆがめてしまった気がする。
 対して威は、凄艶に笑ってみせた。
「あのアラクネ、魔物にしておいで」
 仄羽の隣を歩いていた七嶺が、ちらりと暁を見た。


 *


 パミーナは改めてひとりで来た暁を認めると、少し驚いた様子を見せた。それでも毅然として、初めて訪れたときと変わらぬ微笑みで暁に言った。
「本日はどのようなご用件ですか?」
 対して、暁もいつものとおり微笑んだ。慣れているだろう、と威は言った。ほかに経験のない相手など、お手の物だろう、と。従者は主人の期待に応えなければならない。
「あなたと、愛を語らいに」
 先日言われた言葉をそっくり伝える。パミーナは暁の表情と言葉に一瞬顔を赤らめたかと思えば、さっと顔色をくもらせた。魔物となってしまった母のようにはなりたくない、あのおそろしさに自分が呑みこまれるようなことにはなりたくない、という思いが、ありありと伝わってくる。
 絶賛婚活中だとか、愛を語らってみたいだとか、運命だとか言いながらも、パミーナは自身のアラクネという種族に恐怖を覚えている。いざというとき、自分も抗えずに相手を呪い殺してしまうという「運命」に怯えている。
「いいのですか?」
 弱味のある相手に対して手綱を持つのは、暁にとっては簡単なことだ。
「わたくしと愛を語らうということは、わたくしに好かれるということです。わたくしに好かれるということは、わたくしを裏切れば呪われるということです」
 矢継ぎ早に投げかけられて、保身、という二文字が暁の脳裏に浮かぶ。呪いは確かに、種族が違ううえにいったいどんな類のものか想像しかねるのでおそろしくないと言えば嘘になる。しかし、
「恋情の呪いなど、お前はもう数えきれないくらい背負っているだろう」
 と威に一笑に付されたとおり、恋情の呪いというのであれば暁はもはや多くを受けているし、裏切るも何も、はなからこのアラクネと糸を結ぶ気などないのだ。裏切られた、とパミーナが思えば、パミーナのなかで暁は裏切ったことになるのだろうけれど、さしたる問題ではない。いずれ呪いによって死ぬとしても、まあ、威のあとであれば別にいいか、と暁は思っている。
 もともとが自分の意志と関係なく放りこまれた先で生きるための手段として。今回は主人に命じられての行動である。これこそ理不尽かもしれない。暁の意思が介在したことなど一度もないのだから。それでも、威に忠誠を誓って従うことにしたのは暁自身であるから、仮にアラクネの呪いで死ぬとすれば、威の命令をまっとうした何よりの証拠になる。すでに持っているであろう大量の恋情の死骸に比べれば、ずいぶんとましだ。
「それでも……」
「かまいません」
 パミーナの声を遮り、暁は一歩進み出た。
「すでに、十二分に聞きました。承知のうえで来たんです」
 はっきりと断じれば、パミーナは開いたままの唇を震わせたあと、ぐっと一文字に結んだ。彼女がうつむくと、長身の暁からはあまり表情が見えなくなる。ぱっと顔をあげたときには、パミーナは笑顔を浮かべていた。
「ごゆっくりしてくださいね」
 頷く代わりに、暁はほんの一匙の愛情を持って、緩やかな笑みをパミーナに向ける。瞳がかすかに大きく開かれたのを、暁は見逃さなかった。そうだ。わかってくれなければ困る。伝わるように与えたものにさえ気づけないようであれば、彼女の「助言」とやらもたかが知れたものだ。種としての本能なのか、それとも呪術の類なのかは知らないが、いまの反応を見るかぎりは本人が恋愛未経験とはいえ生業としているだけのことはありそうだった。
 パミーナはまだ半信半疑である。期待をしないように自身を抑えている、というべきか。詰めすぎては逆効果だ。暁はパミーナから距離を置いて腰かける。馴れ馴れしくはせず、しかし親しみを持っていることは伝わるように、適切な距離をとった。
 まずは警戒心を解いてもらわなければ話にならない。話をしよう、と暁が持ちかけると、パミーナはゆっくりと話しだした。内容は自分の種族、アラクネのことだ。ほんとうに理解しているかと言下に訴えているようだった。
「わたくし達は本当にいろいろな種族に恋をします。人間はもちろん、ドラゴンからゴブリンまで」
 ドラゴン。そういえば、シンクが「あっちのななちゃんは竜族なんだよ」などと言っていた。「あっち」というのがどっちなのか、シンクは時たまよくわからないことを言う。
「そこに赤い糸が繋がっていることは稀です」
 暁は黙って話を聞く。赤い糸が存在しているとは露とも思わずとも、恋に身を投げようとするひとなら男女問わずさんざん見てきた。一縷の望みに懸けて、と言えるだろうか。パミーナ本人が言ったとおり「変わる可能性がある」運命にすがって唯一を探すさまは、ロマンチストであれば儚くも尊い、と評すかもしれない。当然、暁はロマンチストなどではないので、特別には何も思わなかった。
 語り続ける彼女に耳を傾け続け、暁は隙を見てお茶を所望する。自分ばかり話し続けた罪悪感がわいたのか、パミーナは愛想笑いを浮かべながらも慌てて立ちあがり、手際よくお茶を出してくれた。本人が「得意」と言うだけはある。暁の咽喉が渇いたわけではなく、単にパミーナのタイミングを見て言ったにすぎなかったが、多少なりと感心した。
「もし、わたくしに愛想が尽きましたら、もう二度とここに一人でいらっしゃらないでください」
 去り際、パミーナはそう言った。暁は口元で弧を描くにとどめ、頷きも返事もしなかった。


 宿に帰りつくと、がやがやと騒がしかった。常宿にしている冒険者たちだけではなく、外からの客が夕飯をたのしんでいる。見渡せば、定位置となっている角のテーブルに威たちが座っていた。シンクが目敏く暁を見つけ、大きく手を振る。つられるように瑞矢たちも視線を暁に向けた。
「さすがタイミングがいいね。そろそろ頼んだものが届くところだ」
 威が言い、図っていたように宿の娘が料理と飲み物を次々に運んできた。いただきます、と真っ先にシンクが言い、仄羽たちが続く。
 しかし席に七嶺の姿はない。
「七嶺なら部屋だ。今日は食欲がないらしい」
 探るような暁の視線に気づいて、瑞矢が言った。威は仄羽の隣で食べ物には手をつけず、煙管をふかしている。にやりとした視線が暁を刺した。
「暁は色男だからね」
「御冗談を……」
 暁は薄く笑い、水を呷る。酒もそれなりに飲めるが、ストレスのはけ口にはならない。
 食欲がない、のではなく、暁と顔を合わせたくないのだろう。七嶺はいつもそうだ。暁が何か色恋に関する仕事をすると、不機嫌になって部屋に籠る。普段は吸わない煙草を吸って、だらしなく過ごす。その煙草の吸い方を教えたのは暁である。
「いくつか軽いものを、親父さんにはお願いしておきました」
 大皿から適当に見繕って威の前に置きながら、仄羽が暁に言った。七嶺についている彼女は、七嶺がどうして部屋にこもっているのか、本人に理由を聞かずともわかっている。
「そうっすか」
 それで暁も、そう答えるに留める。めずらしい。声の調子からして、仄羽は心なしか怒っているようだ。
 しょー、食べないの? 食べていい? と、相変わらずいつの間に食べたのかすっかり自身の皿をカラにしているシンクに言われ、どうぞ、と差し出す。顔を明るくさせたシンクに、
「お前は食べすぎだ。暁も、疲れているのはわかるが何か食べろ」
 と、横から瑞矢の𠮟声が飛ぶ。
 いざというとき空腹では威を守ることができないという意味で叱られたのはわかるが、暁はへらへらと笑んだまま答えない。今さらあれくらいのことで食欲を失うほど疲弊することはなくとも、なんだか食べるのが億劫だった。
 瑞矢、おかあさんみたい、とさっさと暁の皿に手をつけているシンクに言われ、瑞矢は「お前が手間をかけさせるからだろう」とシンクの顔を指で挟んだ。気づけばパーティにいたシンクといちばん仲良くなったのが結果的に瑞矢だったのは、暁にとって意外だった。世話を焼かれることに慣れているシンクと、世話を焼くことに慣れている瑞矢で相性がよかったのだろうか。
「それで、首尾はどうだ」
 いまだ食べ物には手をつけていない威が、煙を吐きながら言った。
「まあ、数日かかると思います。好意を向けられても疑心暗鬼のようで」
「ふうん。やっぱり慎重になるんだね、そこは」
「殺すよりも愛したい、殺されるより愛されたいそうっす」
 瑞矢の視線が鋭いため、仕方なくのろのろと箸を動かして口に運びながら答えると、威は声をあげて笑った。周囲の喧騒にまぎれて、彼の笑い声は目立たない。春嵐の出なら、喧騒のなかでも鋭く耳に届いて振り向いただろうけれど、彼らの出身である春嵐の者はほかに誰もいない。
「聞いたか仄羽」
「聞こえています。ひどいエゴですね、威さま」
 ゆったりと笑って仄羽が威に言い、
「無償の愛よりは信憑性がある」
 いつもよりも弓なりに左目を細めて、威は仄羽に言った。シンクの相手をしながら瑞矢は背筋がぞっとしているだろうし、暁も苦い顔で水を飲むしかなかった。やはり仄羽は怒っている。それがわからぬ威ではないだろう。喧嘩とはいかないまでも、水面下での睨みあいだ。いや、威のほうは単純におもしろがっているだけか。
 仄羽はふうとひとつ嘆息した。
「わたしが愛想を尽かしたらどうするつもりなのですか」
「おかしなことを言う。そんな日が来ると?」
 仄羽に口元に食べ物を運ばれ、威は素直に受け入れながらあっさりと言った。仄羽は眉根を薄く寄せつつも微笑み、いいえ、と答えた。
「でも、あまりお戯れがすぎるようではある程度、致し方ありません」
 いつもと同じ調子のようで、つよい物言いだった。威はふっと煙を吹き、灰を落とす。どうやら仄羽が一本とったようだ。暁もそれなりに威にはっきりものを言うが、仄羽ほどではない。さんざん威に振り回される仄羽を見ていたので、成長したなあ、と父親か兄かという視点で感慨深くなる。
 ふたりの様子を見ていたシンクが、らーぶらぶー、と笑った。いや、いつも笑ってはいるのだが、それはそれとして、あまりにも自由で暁にも笑みがこぼれた。とてもではないが暁や瑞矢ではその感想は出てこない。
「随時報告しますよ」
 暁が食べ物を口に運びつつ言えば、威は紅い瞳を細めてにっこりと笑った。


 翌日、暁はパミーナのもとに足を運んだ。相手が半信半疑で暁を迎えている以上、日を開けるのは得策ではない。暁としても、長い時間をかけるつもりはなかったし、かけたくもなかった。
「連日すみません」
 扉を開けて暁の姿を認めたパミーナは、昨日に比べると幾分か素直に顔を明るくさせた。その表情を見て、暁も昨日よりさらに愛情をこめた視線をパミーナに向ける。
「さっそくで申し訳ないんですけど、お茶をいただいても?」
「はい! 新しい茶葉を出しましょうか。知り合いがくださった薔薇のお茶なんです」
「へえ。昨日淹れてくれたお茶もおいしかったですから、たのしみっすね」
 笑顔で言えば、パミーナは照れた様子でそそくさと奥へと入っていった。実際、昨日のお茶はおいしかった。
 薔薇のお茶というのがどんな味なのかはわからないが、薔薇自体は見たことがある。何種類かある色のうち、象徴的なのは赤だと聞いた。赤。パミーナの双眸も赤く輝いている。赤目は、春嵐に生まれ育った者にとっては一種抗えないものだ。春嵐町を治める祇矩藤家の瞳が代々赤いためで、つまり威の持つ瞳の色である。どうしてなのか説明はできないが、暁には威の露出された左目のほうが煌々として映るし、パミーナの赤目を見ても祇矩藤ではない、ということは直感でわかる。おそらくそれは同じ春嵐町出身の仄羽や瑞矢、七嶺も同じだろう。だからパミーナの瞳が赤いからといって魅了されたり、ためらったり、まさか良心の呵責に苛まれるということはないけれど、一瞬、暁自身にはどうしようもない本能のようなものが、胸の奥のほうを走っていく。威のあの紅い瞳と比べて、落胆してしまう。
 お茶を持ってきたパミーナに、暁は本心を悟られる隙を与えず微笑む。席についた彼女は、自ら昨日よりも少し距離を詰めて座った。
「また二人きりで会えてうれしいです」
 と彼女は言い、カップを傾けていた暁はすぐには答えられず、パミーナに視線を向ける。視線の先の彼女は目を伏せていて、覗くように暁を見たあと、また目を伏せた。
「……大丈夫ですよ。まだ、私も本気ではございません」
 自分に言い聞かせているような言い方だった。警戒心とは裏腹に、パミーナの心情が大きく揺れているのを暁は感じる。恋情がコントロールできれば、誰も苦労はしない。ましておそらくはこれまで他者と壁をつくって己を守ってきたパミーナは、「好意を向けられる」ということ自体に免疫がない。
 逸るとろくなことにならないが、考えているよりはやめに押しても大丈夫そうだ。暁はカップから口を離し、眉尻を下げてパミーナを見つめた。パミーナは暁に気づくとさっと視線を落とし、
「今ならまだ、他の方とパートナーになられても、わたくしはあなたを呪ったりしません」
 こちらは先ほどと異なり、きっぱりとした物言いだった。矜持をしっかり保っている。好感が持てた。
 暁は黙って二口目を飲んだ。ほのかな苦みと、鼻腔をつつく匂いは不快ではない。
「それに、以前来ていただいたとき、あなたには、その……」
 助言はいらないと言いつつ見てもらった、というより、彼女が見えてしまった「赤い糸」の話だろう。「運命の糸が見える」、とあのときパミーナは言った。「強固な運命で結ばれた真の相手であり、離れがたい半身を繋ぐ糸が見える」と。誰と誰、とは言わなかった。言わなくていい、とこちらが申し出たためであるが、なんとなく、暁はわかっている。その場にいた誰もがわかっていただろう。けれど物事には曖昧にしているから成り立っているものがある。はっきりと言葉にして断じられてしまっては、崩れ去ってしまうものが。
 つまり、あのときのシンクは正しかった。帰ったらおやつでもあげなければならない。
「なんの話っすか?」
 暁はティーカップをテーブルに置いて、座ったまま体をパミーナに向ける。
「パートナーになるかは、その二人次第。でしょう?」
 だからそんなこと言わないで、と言わんばかりに、暁は小首を傾げてパミーナの顔を覗きこむようにする。触れたりはしない。そのタイミングではない。
「俺は、パミーナに会いにここに来てるんすけどね」
 パミーナの双眸が一瞬、暁を捉えた。カップをぎゅっと握りしめて目を泳がせ、
「わたくし達は、愛に生きる生き物。一度恋をしてしまえば……」
 何度目かの種族の線引きに、暁は根気強く微笑み続ける。アラクネとは皆こういうものなのか、それともパミーナの個性なのか。わたくし達、という言い方からすると、種としての傾向かもしれない。この線引きがなくなったときが、パミーナが暁を信用した証になるのだろう。
「そんなわたくし達の夢は、未来の旦那様と共に在ることだけです」
 パミーナが顔をあげて暁を見たかと思えば、改めてその距離に驚いたらしい。またすぐにうつむいた。
「私を愛してくれれば、もっと嬉しいです」
 彼女にとって譲れない一線なのだ。小さな悲鳴にも聞こえた。暁はさらに柔らかく微笑む。うつむいたまま顔をあげそうにないパミーナの手をそっと握った。
「ひゃっ!」
 驚いたパミーナの体が震え、反射的に引っ込めようと動かれても手は離さない。パミーナの金髪が揺れる。朱に染まった耳が隙間から見えた。
 何かを言おうとしている雰囲気は感じとれるが、声が出ないのか、パミーナは何も言わない。暁も何も言わなかった。黙って手を握り続ける。
 これほどまでに種族の話をされれば、もしかすると愛の示し方も人間とは異なるのではないかと危惧していたが、問題はなさそうだ。むしろさまざまな種族の男に恋をするアラクネであるからこそ、どんな求愛行動にも察して応えられるようになっているのかもしれなかった。
「はう……照れます、暁様……」
 か細い声でパミーナが言うので、うん、と暁は頷く。手を重ねたまま、力を緩める。パミーナが拒否をして逃げようと思えば逃げられるだけの力加減になる。
 察したのか、パミーナはぴくりと反応を示したが、離そうとはしなかった。
「……ええっと、本音を言わせてもらえれば」
 暁が近い距離を保ったまま、手を握ったまま黙っているからだろう。沈黙に耐えきれずに、パミーナが平静を装いながら言葉を紡ぐ。
「暁様といろいろな所に出かけて、いろいろな体験をしたいです」
 リューンの街、海、生誕祭のお祝い。
 彼女が挙げたのはそんな平凡なことだった。このあたりの生まれであれば定番といえるような。もしもの話ですけど、とパミーナは続け、
「私を、連れて行ってくれますか?」
 やっと暁を見上げた。
 暁はパミーナの赤目を見つめ返し、驚いたふうを見せ、改めて微笑む。パミーナの瞳に暁がどう映っているのか、考えるまでもない。
「どこへでも」
 今度は目を逸らさず、パミーナも微笑んだ。大きな双眸を細め、眉尻を下げた、そのひとにしか見せない、とろけたような笑顔だった。
「ふふ……ありがとうございます。お優しいんですね」
 かわいい。暁は素直に、そう思った。


 今日も七嶺の姿はなかった。仄羽に聞いてみれば、朝から籠っているのだという。食事を運べば受けとってはくれるもののほとんど食べず、もういらないわ、と固辞されてしまうらしい。余ったぶんは責任をもってパーティ内の大食らいシンクがおいしくいただいたので親父さんに怒られるようなことはなかったが、心配はさせている。
「あなたほんとに、よく食べるっすね」
 寄り道して買ってきた団子をもしゃもしゃと食べているシンクに言えば、シンクはお得意のきゅるるんとしたポーズをとった。ほかの冒険者たちから「かわいい」と呟かれ、うれしそうにしている。かわいいかわいい、と暁が言えば、ますます胸を張った。
 まったく帰り道のルートに入っていない町にまで足を延ばしてわざわざ団子を買ってきたのは、仄羽の好物だからだ。このあたり一帯はなかなか和菓子を売っている店がない。春嵐では当り前に身近にあったものが、リューン近郊には存在しないのだ。
「仄羽ちゃん、すきに食べてくださいね」
 しあわせ、と書かれた顔で団子を頬ばっている仄羽に言えば、こくこくと頷いた。罪滅ぼし、というほどではないにせよ、威の余計な一言を引き出したのは暁だ。威はいつだって思っていることしか言わないので、暁のせいというわけではないのだが、威が仄羽のご機嫌とりをしないぶん、暁は気を回すようにしている。仄羽がいくら自分で自分自身の精神の調整をある程度できるとはいえ、ときには他人からの気遣いで労わられることも必要だ。おいしいね、おいしいね、と言いあっている仄羽とシンクを見ていると、こんな単純なことでいいのならいくらでもという気持ちになる。
「明日には終ります」
 読書をしている威に体を向けて、暁は言う。日を開けて愛憎を深めたほうがよりつよい呪いが完成するのかもしれないが、正直なところはやく済ませてしまいたかった。
「そう」
 威は本から視線をあげずに頷いた。
 脳裏で、今日の別れ際を思い出す。本気になってしまいそうなのです、とパミーナは言った。万が一を考えて、完全な武装をしてきてください。できれば出来る限りの経験も積んで、と。
 これ以上経験も何もないだろう。どうするかなどなおさら、考えるまでもない。
「あなたに殺されるなら、わたくしも本望です」
 暁を迎えるたび、うつくしくカーブを描いていた唇が、小さく戦慄いていた。
「ですが、愛してくれるなら――」
 続きは言えずに、彼女は口を閉ざした。
 愛している、と誰かに告げたことはない。少なくとも、本心からは。あえて声にのせて相手に伝えるおそろしさを、パミーナは知らないのだ。口にすることはできる。明日パミーナに求められれば、応えることはできる。けれどそれは、パミーナを相手にしていても、暁の目に映っているのはパミーナではない。
 向けられた言葉をそのまま報告すると、
「そんなことを言ったの」
 ぱっと視線をあげて、威はたのしそうに笑った。
 最後の団子を食べ終えて、名残惜しそうに串についた餅をかじりとっていた仄羽が威に目を向けた。
「本望ですか? 威さまも」
 すると威はみるみるうちに左目をゆがめ、仄羽を見た。
「つまらん質問をするな」
「久しぶりにはっきり言われたくて」
 長く一緒にいるうち、このふたりはどこか似てきたのではないか、と暁は思う。地に足をつけるため必死でもがいていた仄羽はしなやかになり、威はまあ、これでもけっこう、丸くなった。
 威は不機嫌を隠そうともせず仄羽を睨んだが、仄羽は動じない。実につよくなったものだ、と昨日に続いて感慨深くなり、なりゆきを見守ることにする。
「殺される気はない」
 本を閉じ、威は煙管を瑞矢に出させる。和菓子は近くになくとも、煙草屋は近くにあり、刻み煙草も扱いがあった。威は手慣れた仕種で雁首に煙草を詰める。すかさず瑞矢が火をつけた。部屋に戻れば煙草盆があるが、毎夜騒がしく宴会に近いことが行われるこの宿では食堂のテーブルに煙草盆を常駐させてくれとは頼めなかった。いつの間にか落とされて壊れているのがオチだ。
「けど、仄羽なら、僕を殺してくれていい」
 仄羽が満足げな顔を浮かべかけたところで、威が仄羽の顔に煙を吹きかけた。至近距離で浴びて、げほげほと咳きこんでいる。なぜかシンクのほうが「たばこくさーい!」と腹を立てていた。元凶の威は声をあげて笑っている。
 控えるように座っている瑞矢に視線を向ければ、我関せずを態度で貫いていた。正しい選択だ。誰も馬には蹴られたくはない。
 報告は済んだ。暁は席を立ち、部屋のある階へとあがっていく。自室を通りすぎて七嶺の部屋の前に立つ。ノックはせず、そっと扉に手を触れた。なかに七嶺がいる雰囲気はある。聞いたとおり、出かけていたりはしてなさそうだ。暁はそのまま離れ、自室へと帰った。


「わたくしは母が嫌いでした」
 粛々と、パミーナは語りだした。この話をすると決めていたように。
 パミーナは、暁が訪れたときには華やかな笑顔で出迎えてくれた。昨日のどこか陰鬱とした様子は見せず、つとめて明るい笑顔で「あなた様のために買ってきた」という「とっておきの」茶葉でお茶を淹れてくれて、ふたりで飲んだ。薔薇のお茶よりは、こちらのほうが暁の好みだった。だがもっといえば、最初にひとりで来たときに淹れてくれたお茶が、いちばんおいしかった。もちろん、そんなことはパミーナには言わない。
 明らかに近くに座るようになった彼女の手を握れば、同じように「ひゃっ!」と驚きつつも、
「あなた様の手……わたくし、好きです」
 と、明らかに熱のこもった表情で暁を見つめた。一晩でこれだけの変化だ。暁の気持ちを確認して最悪の事態になる前に、恋というものを堪能しようとしているように暁には映った。健気だ。手を握っただけ、話を聞いただけ、お茶を飲んだだけであるのに。暁は自分の話はほとんどしていない。聞けばきっと、愛するひとに裏切られれば魔物に変化するというアラクネの彼女は、耳を覆うだろう。
 たった三回、とは思いつつ、しかし三回目とは暁が知っている作法にも則っている。違うのは花魁も陰間も、三回目の逢瀬でなければ客と会話しないどころか、傍にも寄らないところだ。しかし三回目までこぎつければ、枕を交わすことができる。それを思えば、会話をして、手を握られて、それで暁に恋をしているパミーナは、順を追って恋愛していると言ってもいいのかもしれない。そもそも、客と並べて考えているところが、不誠実だとしても。
 いま、手を握っているパミーナは、不安そうに時たま暁を覗き見つつ、暁のやわらかな視線を受けて安堵しては、言葉を続けている。
「わたくしは……あなた様への恋が実らなければ、潔く死んでしまいたい」
 魔物になっても生き続けているという彼女の母は、いったいどんな気持ちなのだろうか。復讐を遂げても想いは浄化しきれずに苦しみもがいているのだろうか。
「あなた様に殺されるのなら、本望です」
 まっすぐに見つめられて、暁はその赤目を見返す。昨日も言われた言葉だ。暁にはわからない。威が仄羽にともに生きることを望んでいるように、暁もともに生きたい。パミーナが言うところの、運命の赤い糸がつながった、相手と。もしその糸が実際にはなくとも。死にたくない。以上に、死んでほしくない。自分が傍にいなくてもいいから、とはなかなか言えないが、それでもやはり、幸福のなかの生であってほしい。
「呪いはあなた様の身を焼くでしょうが」
 付け加えられた言葉に、暁は初めて視線を逸らしたが、パミーナもうつむいて視線を下へと向けていたために気づかれなかった。
 これだ。
 ここが利己的なのだ、パミーナは。
 愛する、愛されたいと言いながら、それは愛ではない。ひとりよがり、という意味ではあるいは恋と称してもよいのかもしれないが、パミーナが愛しているのは自分だ。魔物になってもいい。けれど、自分の想いだけは受けてほしい。ほかに移ろうなど許せない。
 ああ確かに、母が魔物となってかなしかったのだろう。おそろしかったのだろう。父が母を裏切って、悔しかったのだろう。苦しんだのだろう。
(だけど、それが何だっていうんだ?)
 暁が侮蔑の視線を向けていることにもパミーナは気づかず、話を続けている。
「どうしようもなく、あなた様を愛してしまったが故の呪いなのです」
 その程度のことで?
 視線を向けられたときには、暁はもうすっかり先ほどまでの憂いを帯びた表情で、パミーナを見つめていた。
「最期に、受け取ってください。私が、この世に存在した証なのですから」
「……なぜ諦めてるんすか?」
 すり、と握った手をなで、顔を近づける。パミーナは紅潮し、手に力を入れた。
「……母を、知っているからですね。所詮わたくし達は、魔なるアラクネ」
「…………」
「愛されていても、愛されない。分かっているのに、愛してしまう」
 それは、間違ったことではない。想いを向けて、想いが返ってくることのほうが稀だ。あるいはお互いに想っていたとしても、気持ちを向けあえるとはかぎらない。
「あなた様……わたくしはあなた様を愛しているのです」
 潤んだ赤の瞳が暁を見つめる。金の髪が透けて、暁の双眸を刺す。周りが見えなくなる激情を、明らかに向けられている。恋情を否定することまではしなかった。どんな形であれ、パミーナが暁を想っていることは、暁の目には明らかだった。
「一方的でも、身勝手でも。憎まれても、拒否されても」
 そのとおりだ。よくわかっている、と心のなかで返事をする。
「愛して、しまったのです」
 そうだ。
 パミーナの肩をかき抱く。
「ひゃい⁉ あわわ……あなた様……?」
 暁の腕のなかで、パミーナが暴れる。暴れれば暴れるほど、暁は腕に力をこめた。離す気がないとわかったのか、やがてパミーナは力を抜き、遠慮がちに暁の服を掴んだ。
「あう……恥ずかしいです……」
 声は聞こえていたが無視をして、暁はパミーナを抱きしめ続けた。おそらくうるさいほどの暁の心臓の音が、パミーナに直接伝わっているだろう。
 彼女の言うとおりだ。一方的でも、身勝手でも、憎まれても、拒否されても、想いを捨てることはできない。ちらちらと視界の端で捉えている金の髪が、暁には違う色に見える。いつもそうだ。確かにこの腕に抱いているのはパミーナであり、ふわふわとした感触を受けているのに、暁が感じているのはもっと細く、薄い体だ。
 ゆっくりと暁はパミーナから離れる。
「……急にすみません」
 口元を手で覆い、困ったふうに告げれば、パミーナは紅潮したままの頬で小さく首を横に振った。蒼い顔もあせった顔も、暁はパミーナには見せない。あくまで気が逸って手が出てしまった、という体を装う。
 そして、彼女の考えが揺るぎないものであれば、今日、決断を迫られるはずだ。
 帰ります、と暁は言った。気まずくなって逃げるように。
「あなた様」
 鋭い声が、背後から届いた。
「今日は、お答えを聞かなければなりません」
 動揺が続いているように、戯れで考えさせてくれ、と言えば、パミーナは頷きつつも、「しかしお答えを聞くまで、帰すわけにはまいりません」と答えた。暁は扉の前に立ったまま、パミーナを眺めた。目鼻立ちのはっきりした顔、女性として理想的な曲線を描いた上半身、蜘蛛の下半身。本人が懸念している見た目だが、さしたる問題はどこにもない。パミーナのうつくしさであれば、きっといずれ誰かが見初めてくれるだろう。昨今のリューン近郊では人外などめずらしくもなんともない。彼女はあまり外に出ないようだから、知らないのかもしれないけれど。
「……俺は」
 体をきちんとパミーナに向けて、暁ははじめて彼女に心から微笑んだ。
「俺には、自分でもどうしようもできない思いがあります。それは、あなたに対してではない」
 パミーナは目を見開いて、やがてうつむき、蚊の鳴くような声で「はい」と答えた。何か言わなければ、返事には答えなければと自分を律しているようだった。
 かまえはまだとらない。パミーナの姿は、アラクネのパミーナのままだ。
「もうしわけございません、冒険者様」
 謝らなくともいい。けれど、暁はパミーナを見つめるだけで何も言わなかった。言っても意味がないとわかっている。呼び名が違うのは決別のためか、あるいはもはや自我が崩壊しつつあるのか。
「わたくしは本当に、冒険者様のことを、愛してしまったのです」
 ず、ずず、とまるで脱皮でもするように、パミーナの姿が変わっていく。美麗な顔は崩れ、髪は抜け、上半身の凹凸もなくなる。人間の暁の目から見れば、まさに蜘蛛の化物であった。
「この呪いと姿こそが、わたくしが愛した証なのです」
 声も変わっていく。パミーナであることはかろうじてわかるが、いくつかの声が混ざったような、不調和音を奏でる声音になる。
「ネェ、ボウケンシャ、サマ?」
 もはやパミーナとは言いきれないアラクネが暁に襲いかかる。そこでやっと暁は武器をかまえた。なるほど、多少体に違和はある。これがアラクネの呪いというものかもしれない、と思いつつも、頭のなかは平常どおりだった。威に命じられたとおりをなして、威が望むとおり、生きて無事に帰るだけだ。
 輝いていたパミーナの赤の両目はもはや落ちくぼんで何色なのか判別できない。それどころが、目というものが存在しているのかも断言はできなかった。暁ははっきりと嘲笑を浮かべる。
「威さまと同じ色なんて、不敬っすもんね」
 最後にはアラクネの脚を切りとり、暁はパミーナでもアラクネでもなくなった、死体を見下ろした。


 *


 報告を終えると、威は大いによろこんだ。土産の脚も威の興味を刺激したらしい。瑞矢はさすが涼しい顔をしていたが、仄羽とシンクはお互い体を寄せ合って、いや、仄羽がシンクに顔を寄せて、引きながら見ていた。そちらの反応が正常だろう。瑞矢は単なる慣れ、威はほかとは感覚が違う。仄羽もシンクも冒険者として頼もしい仲間であるのに、冒険者を始めたころと感性が変わりないのがすごいところだ。もっとも、変わりないという意味では、威も瑞矢も変わりないのだが。
 そして暁は、七嶺の部屋の前にいた。今日もほとんどものを食べず、部屋から出てきていないらしい。ためらわずにノックをして、返事を待たずに入る。
 七嶺はだらしなくベッドに寝そべっていた。暁を見るなり小さく悲鳴をあげる。誰もこないだろうとは思いつつ、暁は後ろ手に部屋の鍵を閉める。七嶺はここを常宿にしているほかの冒険者たちにも人気があるだけではなく、七嶺を目当てに余所から客が来るほどだ。鍵くらいは普段から閉めていてほしい。
 枕元の煙草盆に置かれた、火のついたままの煙管が見えた。
「寝煙草、危ないからやめなさい」
 何度目かの注意をする。七嶺は完全に油断していたとみえ、はだけて合わせの隙間から丸見えであった太ももや胸元を慌てて手で隠した。飛びあがるように起きて、暁に背中を向ける。
「勝手に入らないでいただけますか?」
「ノックしましたよ」
 返事を待っていないだけだ。暁は散らばった着物や下着を通りすがりに集め、ベッド脇に載せる。暁自身もベッド脇に座り、七嶺とほぼ背中合わせになった。
 肩越しに七嶺に視線を向ける。なんだかひどく久しぶりな気がした。帯や着物は手際よく直していっているが、髪までは気持ちが回っていないようだ。結んだまま寝転んでいたせいでぐしゃぐしゃになっている。暁が七嶺にあげた唯一の簪が、乱れた髪の奥に佇んでいた。
 暁は立ちあがり、七嶺の近くに腰をかけなおす。揺れたベッドに七嶺が何事かと振り向き、ベッドの角を挟んだところから暁は七嶺の首根に顔をうずめた。七嶺は驚きや拒否よりも先に困惑が走ったらしく、体をびくりと震わせたものの暁を突き飛ばしたりはしなかった。
 体勢は変えずに七嶺の簪を抜きとり、髪を梳く。七嶺は硬直していた。いつもの暁ならばしないようなことを、連続して行っているからだ。
「終りました」
 何を、とは告げず、暁は言った。
 疑問符をいくつか頭に浮かべていた七嶺も、暁の言葉を受けて冷静になったようだった。
「そうですか」
 虹色に光る黒髪。薄くて細い、けれど大きな曲線を描く柔らかな体。赤ではなく、黒い双眸。暁の幻覚ではない。七嶺がここにいて、触れている、という事実が、やっと暁を心底から安堵させた。
「呪われて死ぬと聞いていましたが、どうやら違ったようですね」
「うん」
 七嶺に体を押しのけられ、暁は従う。代わりに簪を七嶺の手に戻し、そのまま握りしめた。七嶺は眉根を寄せて抵抗したが離さない。頬がかすかに赤く染まっているのが隠しきれていない。
「呪いとやらは、断ちきったから」
 する、と掴んでいるのとは反対の手で七嶺の袖に指を入れる。折れそうなくらい細い腕だ。七嶺の体がぴくりとはねた。
「死んでほしかった?」
 単純な好奇心として問えば、いいえ、と予想よりもずいぶんとつよくはっきりとした否定が降ってきた。暁は思わず顔をあげる。
「暁さまは」
 同じ調子でつよく言い放とうとされたらしき続きは、空気だけを震わせた。七嶺は口を開いたまま、何も言えずにかたまっている。瞳が揺れたかと思うとじわりとにじみ、七嶺が慌てて袖で目元をぬぐう。もう片方の、暁が握っている手が引くように引っ張られたが、暁は離さない。ぎゅっと握りしめたまま、七嶺を見つめた。
 整えられた眉、長い睫毛、眦がつ、と持ちあげられた形のよい双眸、薄い唇、小さな顔、色の白い肌、なにより痛いくらいにまっすぐな心。これ以上にうつくしい女性を、暁は知らない。
「なんで、そんなことを聞くんですか」
 必死に涙を隠そうとしながら訴える七嶺を、暁はおそるおそる抱きしめた。乱暴に目元をこすらないでほしい。見られまいとして、手に必要以上の力をこめないでほしい。歯を食いしばらないでほしい。見ないふりも、七嶺をひとりにすることも、暁にはできなかった。
 よわよわしくも身をよじって暁の腕から抜け出そうとしていた七嶺は、やがて諦めたのか、暁の胸元に顔をうずめた。着物をすがるように掴んで、泣いていないふりに努めている。だから暁も、気づいていないふりをした。普段ならありえない、抱きしめあうという行為も、お互いにわかっていないふりをした。
「わたしが暁さまに呪いをかけるなら」
 震える声で、七嶺が言う。
「死んでおしまいも、殺しておしまいも、まっぴらです」
 途中途中で洟をすすりつつ、七嶺は続けた。声音に怒りが混ざっている。
「一生、わたしのことが忘れられないように、どこにいても何をしていてもわたしのことを思い出すように、呪いをかけます」
 服を掴んでいた腕が背中に回され、体がさらに密着する。七嶺がどんな表情をしているのかはわからない。暁の予想ではおそらく、憤怒の表情で、睨むようにしている。この細い、そして暁からすれば小さな体のどこからそんな力がわくのか、七嶺は感情に底がない。どこまでも怒り、かなしむ。残念ながら底がわからないほどよろこばせたことは、いまのところ一度もなかった。
「うん」
 こめられた腕の力に合わせて、暁もさらに力をこめる。
 その呪いは、七嶺をはじめて見た日から、とっくにかかっているものだ。