雨:本編

いざ本編で同時刻の話が出てきたときには細部が異なる場合があります

また特に作中用語に説明を入れていません

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 七嶺。それが彼女に与えられた〔春日〕での名だ。廓に入った以上、名字もそれまで呼ばれ育った名前も関係がなくなる。借金もないのに単身、そのうえ成人した身で〔春日〕に入れてもらえないかと直談判しに来たのは、おそらく彼女が初めてだ。〔春日〕は祇矩藤直轄であるから、使用人になりたいと志望してくる者はめずらしくないが、花魁にというのは相当の変わり者といえる。春嵐で暮らす誰もが花魁や陰間には敬意を払い、その容貌や所作に憧憬を抱くことはあっても、職として憧憬を抱くことはない。
 芸を身につけるために、年月は重要だ。一七という年齢は新造としてぎりぎりだった。単に住みこみで働きたいのならば使用人でも、という〔春日〕側の提案を七嶺は断固として受け入れず、どうしてもと頭を下げた。その気迫と必死さ、加えて美貌によって許可が出て、晴れて〔春日〕の新造となったわけである。当主である威が彼女の髪色と、暁との間に生まれていた感情をおもしろがったのも大きな理由のひとつだ。大概は瑞矢、もしくは担当のあねが源氏名をつける倣いであるが、七嶺という名は威がつけた。
 雨の日に傘も差さず、〔春日〕の門の前で立っていた七嶺を見つけたのは暁だ。そのときの視界が開けるような、音がこの世からなくなったような、地面がふいにどこにあるのかわからなくなるような、あの、さまざまな現実を置き去りにした感覚を、暁はまだ鮮明に覚えている。そしてそれはひとりよがりではなく、七嶺も同じであると断ずることができた。
「七嶺」
 窓の外を眺める彼女を呼ぶと、少しの間があり、ぴくりと体が動いた。振り返った際に髪が日に反射してきらきらと光る。
「……七嶺」
「暁さま」
 七嶺は何度か瞬き、弛緩してゆるりと微笑んだ。いま〔春日〕の御職は鈴であるが、おそらくそう遠くないうちに七嶺がその座を得るだろう、と思われた。
「振り返ったらいらっしゃったので、驚きました」
「ああ、呼んでから開けるべきでしたね」
 本来はすぐにあねと同室になり、共同生活となるのだが、七嶺には昨晩この部屋でひとり過ごしてもらった。もし雨で風邪を引いていてほかに移されたら困るということと、事情や身元の整理のためだ。結果として家が判明し、話した内容に嘘偽りなしとして認められた。
 いいえ、と七嶺は首を横に振った。
「七嶺。が、あたしの名でしたね。返事ができないところでした」
 確かに、命名はされても実際呼ばれたのはこれが初めてだったのかもしれない。一七は名前が染みこむのに短いということはないだろう。自ら遊郭に飛びこんで、「七嶺」の名をどこまで彼女自身のものにできるのか。幼いころから父親に床での技術を叩きこまれ、はやいうちに陰間として傾城屋に籍を置いていた暁にはわからないことだった。
「暁さまになら勝手に入られても、文句は言えません」
 白い肌に、伏せた長い睫毛が影を落とす。その何気ない動作さえ、七嶺の存在を際立たせているように感じた。彼女はうつくしい。これから〔春日〕で生きていくにあたって、もっとうつくしく、艶を持っていくだろう。
 七嶺の実家は何の問題もない、むしろ平均よりも裕福な家庭だった。現時点で受けている報告でも父母の仲は良好、弟の素行もよく、雨を気にせず荷物さえ持たず〔春日〕に駆けこむような事情は見受けられなかった。家庭の問題でなければ真先に考えうるのは痴情のもつれであるが、七嶺は恋人はいないと言い、調査でも七嶺には恋人なしとのことだった。これからさらに詳細が調べられる予定である。
「俺なら?」
 暁は七嶺の側に腰を下ろす。七嶺は暁とは視線を合わさず、目を伏せたまま、ええ、と頷いた。
「暁さまなら」
 そう答えた七嶺は、何かを懸命に耐えているように見えた。感情が複雑に絡みあっていて暁には判断できなかった。ただおそらく、七嶺が〔春日〕に身を置こうとした理由が原因である。それだけはなんとなくわかり、暁は七嶺から窓の外へと意識を向ける。青く澄んでいて、雲ひとつない空だ。それなのに暁の耳元では、雨の音が響いていた。


 *


 煙草を吸ったことがない、と七嶺が言ったので、暁は使い古した煙草盆を一式あげることにした。使えはするのだが捨てようかと悩んでいたところだったのでちょうどよかった。中古であるうえ、廃棄を考えていたものであるのに、押しつけるではなくごくごく単純に渡したいと思えるのが不思議であった。このあと七嶺がこの煙草盆を捨ててくれてもかまわないし、手元に置いてくれていてもかまわない。ただ一度受けとってくれれば、暁はそれで満足だった。
 七嶺は暁の予想どおり、すさまじい勢いで頭角を現している。あねの鈴いわくは、休みの日にも舞いや演奏の練習を怠らず、鬼気迫るものがあるらしい。まだ新造なので座敷どまりであるが、すでに七嶺を狙った客が何人もいるとの噂である。
 彼女のあねである鈴は教えるのがうまく、大所帯になりがちだ。七嶺は大人数が苦手だと息苦しそうにしている。そうでなくてもあとから入ってきた者に人気が出てくると、嫉妬を生むのだ。いつもこっそりと暁の部屋で顔を合わせているが、これも見つかればどんな感情を抱かれるかわかったものではなかった。それでもお互いやめようと言い出すことはなく、いまに至っている。もっとも何をするでもない。とりとめのない話をぽつぽつとするか、ただ一緒にいるだけなのだが。
 七嶺は門に立ち中へと呼びこむ客引きの仕事だけはいやがっているようだった。実家がそう遠くないので、家族や知人に見られるのを避けたいのかもしれない。七嶺が花魁を望んだ理由は、外との接点を閉じたいためだともうわかっていた。使用人であれば外から知人が来て呼ばれれば応えることが可能になってしまう。花魁になれば、馴染となり通う以外に顔を見せる術はなくなる。
 火皿に軽く煙草を詰め、七嶺に渡す。煙管だけは新しいものを用意した。こんな特別扱い、ほかの花魁たちにばれたらきっと反感を買うだろう。矛先は暁ではなく七嶺に向かうことは想像にかたくない。頭ではわかっていながら、言動が噛み合わなかった。
「そっと吸うんだよ」
 おそるおそる、七嶺は吸い口に唇をつけた。ふ、と煙が吐かれ、ゆらゆらと夜の帳が下りた空へと溶けていく。
「うまくできた」
 柔らかく細められた双眸に、うん、と暁は返す。舞いが上達し所作を得たためか、このごろの七嶺はしなやかでとても眩しい。
「でもおいしくはないわね」
 ひとりごとのように七嶺が呟いたので、思わず笑ってしまった。煙草は暁もあまり呑まない。ただ客には吸う者も多く、いざというとき吸えれば花魁として武器になる。ということを大義名分にしているが、実際のところ、見初めた花魁や陰間に「初めて」を教えたい馴染のほうがよほど多い。暁はいま、いつかの七嶺の馴染が七嶺に入れこむきっかけになる可能性をひとつ潰した。
「ほかにコツは?」
「ん、ゆっくり吸うことかな。急いて吸うと舌が傷む」
「わかりました」
 七嶺の薄く形のよい唇が再び吸い口をはみ、離れれば先をすぼめて煙を吐いた。可能性をたかだかひとつ潰したところで、七嶺は別のきっかけをまた生むだろう。爪がきれいに整えられた指が煙管を挟んでいる、その指先だけで誰かの心を掴むだろう。
 ばちりと音が鳴りそうなほどまっすぐに七嶺と目が合って、どちらからともなく近づいた。前髪が互いの肌に触れそうになったところで、ふわりと七嶺から煙草の香りが漂う。
 暁はすっと顔を逸らし、七嶺の手から煙管をやさしく奪いとる。
「吸ってもいい?」
 返事を待たずに暁は吸い口に当て、煙を吐いた。煙はやはりゆらゆらと空へと溶けていった。
「ええ……」
 煙が消えたころ、七嶺が頷いた。
 煙管を手元に返せば七嶺は受けとり、またそっと吸う。同じ香りをまとったふたりを、かすかな風がなでていく。
 暁の耳元では、雨の音がやまなかった。


 *


 簪を買った。一輪草を模した装飾の簪だ。新造として座敷に出るときにつけるには地味で、素朴なものだった。花魁にとっての装飾品は、自身を映えさせるための道具だ。着飾って魅力的に見せるのである。しかし七嶺には豪奢な装飾は必要ない。あるいは、どんな装飾でも自分のものにしてしまうだろう。けれど見た瞬間、七嶺にあげたいと思ってしまったのだ。さらにいうならば、考えが言語として抽出される前に、手にとって店主に渡していた。
 そして何でも似合うと思いながら、白がいちばん似合う、と思っている。いや、思っているのだと自覚をした。この小さな白い花が七嶺の髪に咲いていたら、どれほどきれいだろうか。
「客引きのとき、お守りに近いものでもあればいいかと思って」
 言い訳をしながら七嶺に渡せば、七嶺は双眸を見開き、瞬きを忘れたようにじっと簪を眺めていた。やがて高揚をなんとか抑えている、といった調子で、
「ありがとうございます」
 と言った。
 その仕種があまりにも可憐で、少女を思わせるほどだったので、あげた暁のほうが驚いてしまった。
「……うれしい?」
 まぬけな質問をすれば、七嶺は何度も小さく頷いた。
「ええ。うれしいです」
 何かをあげて、よろこばれる。たったそれだけのことであるが、暁のなかでじわじわと七嶺の反応が染みわたっていった。渡すことしか考えていなかったのだ。気に入ってもらえてももらえなくても、煙草盆と同じで、受けとりさえしてくれればそれで満足だった。
 勝手に七嶺に似合うと思って購入し渡した、その自己中心的な行動で、七嶺の気持ちをそんなに動かすことができるだなんて、考えもしなかったのだ。
「そっか」
 自然と笑みがこぼれた。うれしいと思ってもらえることは、うれしいのだな、と思う。
 七嶺は驚いたように暁を見つめたあと、いま挿している簪を外した。ぱさりと音を立てて髪が肩に落ちる。
「暁さま、挿してくれますか?」
 断る理由はなかった。暁が簪を受けとり、背中側に回ろうとすると、待って、と制される。
「……前から、お願いできますか?」
 その言葉に、暁は重心をまた落とした。七嶺が暁に体を預けるように傾ける。胸元に七嶺の額が触れた。
 手先は器用だ。暁は向かい側でも七嶺の髪を集め、整え、簪を挿した。何を言うでもなく終わったと七嶺に伝わり、改めて顔を突き合せた。
「……似合いますか?」
 うっすらと微笑まれ、暁は七嶺をじっと見つめる。
「うん。やっぱり白が、よく似合う……」
 見つめているうち、吸いこまれるように七嶺に向けて体が傾いだ。
 七嶺はさっと頭を動かし、簪に触れる。
「大事にします」
 一輪草は七嶺の髪に誇らしく咲いていた。七嶺の笑顔も大輪の花に感じられて、暁は今さら襲ってきた羞恥を隠すようにうん、と頷いた。


 *


 雨が降っている。春嵐は年中穏やかな気候で暖かく過ごしやすいが、雨が降ると湿気がひどくなり多少なりと蒸し暑くなる。
 さああ、とひどくはない雨音がそこかしこに響いていた。雨は夜になってもやまず、月も隠れてあたりは真暗だ。当然客足は少なく、昼見世に引き続いて夜見世も振るわなかった。それでも指名を受けている一部の花魁以外は、降ってわいた休みのように感じているかもしれない。稼ぎがないのは彼女たちにとって困る話であるものの、天候ばかりはどうしようもないことだ。
 暁が一度ねむりにつき、寝つきが悪く目が覚めたときにも、雨はまだ降っていた。目覚めたからといって仕事を再開するには早すぎる。ぼんやりと窓の外を眺め続けるが、暗くて何も見えない。部屋からの明かりと、雨音だけが外を外として認識させていた。
 久々に本でも読むかと暁が動こうとしたそのとき、襖が静かに開く音がした。
「暁さま」
 振り返らずとも声だけでわかる。七嶺だった。入るように促すと、七嶺は申し訳なさそうにしながら暁の側へと来る。
「……起きているとは思いませんでした」
「ああ、ねむりが浅かったみたいで。いましがた起きた」
 七嶺こそどうしたのだろうか。新造は昼見世の準備があるので、深夜を超えて早朝まで馴染とともにする花魁と異なりこの時間は休んでいるはずだ。
 恰好は寝間着だった。髪も下ろしたままで、化粧もしていない。暁と同様に一旦は寝たものの再び寝つけずにいたか、それともはなから寝られずにいたか。
「起きてなかったら、と思っていたのに」
 ぽつりと落とされた七嶺の呟きが、雨音とともに暁の耳に届く。
 暁が話しかけようとしたところ、それよりはやく七嶺がうつむき気味に言った。
「雨の音が」
 七嶺が口にした途端、雨音がさらに部屋を満たした気がした。もちろん、おそらくは気のせいだ。しかし静寂のなかに溢れんばかり、響きを増していく。
 起きてなかったら、何だったのだろうか。問える雰囲気ではない。
 七嶺はなぜ〔春日〕に花魁を望んできたのだろうか。何に追われ、もしくは何に追いつめられているのだろう。顔を合わせたくない相手はいったい誰なのか。
「雨の音が、あの日から、ずっとやまなくて」
「…………」
 いつ、とは聞かなかった。聞かなくてもわかっている。あの日だ。暁と七嶺が初めて出会った、あの雨の日。わかっているので、
「俺も、そう」
 と、言った。
 七嶺ははっとしたように顔をあげた。やはり七嶺には装飾品など不要だなと暁は思う。化粧も必要がない。七嶺が七嶺であるだけで、誰よりも何よりもきれいだった。周りが目に入らない。七嶺だけが暁の双眸に映る。
「雨の音が、耳でずっと」
 揺れる七嶺の瞳から、すっと一筋、雨が降った。それを合図にしたように、暁は七嶺の唇に唇を重ねる。触れるだけの柔らかなものに七嶺は一瞬抵抗をみせたが、暁が再び押しつけるともう逃げなかった。深くを求めて互いの睫毛が触れ、鼻がぶつからないよう角度を変えながら何度も繰り返す。七嶺の腕が暁の首に回り、暁の手が七嶺の頬をとらえた。漏れる吐息が徐々に短く荒くなっているのがわかってもとめられなかった。
「んっ……」
 七嶺のこぼしたかすかな嬌声が暁の心を支配する。体勢が保てずに七嶺の体が壁にもたれかかり、口づけているうち崩れていった。それでも冷静には戻れず、七嶺も暁の首から腕を離そうとはしない。欣喜と、欲と、きもちよさで、ほかに何も考えられなかった。
 これまで仕事の一環でしかなかった口づけがこんなにも感情をぶつける行為だとは知らなかった。輪郭が重なって胸のうちにある気持ちがどちらのものかわからなくなる。七嶺が離そうとすれば暁が追いかけ、暁が離そうとすれば七嶺がその唇を追いかけた。
 もはや何度重ねたか考えるのもばかばかしくなるころ、無理な姿勢に暁も七嶺もやっと鈍い痛みを感じ始めた。
「…………」
 お互いの息遣いが耳をさす。避けてきたのに、ついに越えてしまった。悔いはないが、代わりに晴れ晴れとしたよろこびもない。
 雨はまだ降っている。
「……突然来て、ごめんなさい」
 しばらくの無言を破ったのは七嶺だった。息を整えて、衿を整える。
「いや……」
 暁は曖昧に言いながら、この場をごまかすようなこと以外には何も言葉を持ちえないと知っていた。先ほどまで七嶺で埋められていた心には、混乱が渦巻いている。
「そろそろ戻ったほうがいい」
「はい」
 七嶺は立ちあがり、部屋を出ていった。その素早さに見合わない物音のなさに、暁はひっそりと笑った。それだけでいかに七嶺が所作を含めた稽古に励んで、きちんと自分のものにしたか、よくわかる。
 まだ湿っている唇に触れて、暁は嘆息した。
 降り続ける雨は、しばらくやむ気配がない。


 七嶺のつきだしが決まったのは、朝を迎えたその日のことだった。